こんにちは。
東京都板橋区を拠点に消防施設工事業・管工事業を営んでおります奥崎工業株式会社です。消防施設工事業は、消防法で定められている消防用設備等を建物に設置し、正常な状態が維持できるようにメンテナンスしていく、とてもやりがいのある仕事です。奥崎工業は消防用設備の中でも消火設備に特化した工事業務を行っております。
12月23日は東京タワー[日本電波塔]の完工の日にあたります。今から66年前のことです。表題の写真は、東京タワーの建設途中の写真です。道路には路面電車が走り、小規模な家屋が建ち並んでいます。左奥には国会議事堂も見えます。高層の建築物が周囲にまったくない時代にたつ超高層の自立式鉄塔だったので圧巻の存在感です。フランスパリのエッフェル塔建設時の高さ312mよりも21m上回る高さ333mを誇る日本を象徴するランドマークタワーです。今では日本の戦後復興と経済成長のシンボルとして親しまれています。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』にも描かれていますが、直にこの風景を眺めてみたかったと好奇心をくすぐります。東京タワーの建設事業は有名なので、書籍やネットでも沢山の情報と写真が出てきますが、いくつか拝借させていただきました。建設業界で働く上で、考えさせられることも多かったので、ここで紹介させていただきます。
第二次世界大戦後の昭和28年(1953)2月にテレビ放送が開始され、都市の内部には電波塔の役割を持つ鉄骨造のタワーが建設されるようになりました。名古屋テレビ塔[昭和29年(1954) 180m]を嚆矢に、大坂二代目通天閣[昭和31年(1956) 103m] 、さっぽろテレビ塔[昭和32年(1957) 147m] 、東京タワー[昭和33年(1958) 333m] 、京都タワー[昭和39年(1964) 131m]など1950年代から1960年代にかけて相次いで電波塔が建設されました。
東京タワーの建設事業は、高度経済成長黎明期にあたる昭和32年(1957)6月から昭和33年(1958)12月にかけて工事が行われています。それまでに経験したことの無い超高層建造物の建設事業であったにも関わらず工事期間が15ヶ月という短工期の困難を極める計画だったようです。
東京タワーの建設前までは、放送事業者各社局が独自に建設し保有していた高さ153m〜177mの電波塔にてテレビやラジオの放送電波を送り、自局の電波塔から放送を行っていました。しかし、それらの電波塔では半径70km圏内程度の範囲までにしか電波を飛ばせなかったといいます。東京都内にたつ電波塔では関東一円に電波が届かず、一部の地域ではテレビやラジオは放送できないでいました。また、テレビの普及が爆発的に進む中、各社局が独自に保有する電波塔が増えてしまい、東京都内に電波塔が乱立してしまい景観が悪化してしまうという課題を抱えていました。その中で、『日本工業新聞(現、産経新聞)』の創業者前田久吉[明治26年(1893)年生-昭和61年(1986)年没]の発案により、昭和32年5月に財政界やマスコミ業界の協力のもと「日本電波塔株式会社」が設立され、半径100km圏内程度の範囲まで電波を飛ばせる大規模な総合電波塔を建設する計画が進められることになりました。
前田久吉は、総合電波塔を計画する上で、エッフェル塔をしのぐ世界一の高さを誇る電波塔で、東京のシンボルとして新名所となるような美しい鉄塔にすることを理想に掲げました。そして、設計の条件として、アンテナを含めた塔の高さ380m、高所に展望台を設置し、塔の下に5階建ての科学館を設けることを挙げたといいます。壮大な計画です。当初は、東京都の上野公園や千葉県の鹿野山などの候補地があったものの、維持管理の問題や建設時の鉄骨運搬の問題など実用面を考慮し、テレビ局やラジオ局から近い増上寺の紅葉山の土地を買い取り、現在の芝公園が建設地に決まったとのことです。
設計者として白羽の矢がたったのは日本の近代建築を代表する建築構造学者の内藤多仲(ないとうたちゅう)[明治19年(1886)生-昭和45年(1970)没]で、日建設計株式会社と共同で設計が進められました。施工は株式会社竹中工務店です。
写真 内藤多仲
内藤多仲は、明治19年(1886)に山梨県中巨摩郡榊村で生まれます。当時の日本は国家的背景の下で近代化が推し進められており、建築分野においても近代日本における主要都市と一部の地方において積極的に西欧化が進み、西欧の建築文明の移植・導入が進められていた時代でした。従来の木造建築における設計・施工を大工が一貫して行っていた大工が主流の時代から建築家が主流の時代へと変貌を遂げ、お雇い外国人建築家の招聘や日本人建築家の出現などにより建築生産体制の中に建築家という階層が新たに組み込まれ、建築家を養成する建築の専門教育機関が設けられるなど、建築家を主流に西欧化を進め、日本の建築界の基本的な骨格が形成されていった時期でした。さらには、大工たちの中には請負業者へと変貌を遂げ、その後、現代における大きな建設会社(ゼネコン)にまで発展する大工家が台頭し始めた時期でした。従来の日本固有の木造建築を主軸とした建築文明とは異なり、これまでの日本には無いまったく新たな建築様式や意匠、建築資材、建築技術などが移植・導入され、西洋建築や擬洋風建築など西欧の建築文明から影響を受けた建築、いわゆる「洋風建築」が主流となっていました。しかし、その過程の中で建てられた建築の多くは、地震などの災害で多大な被害を受けてしまっている状況にあり、地震に弱いという問題点が浮き彫りになっていきます。そんな中にあって、新たな構法として鉄筋コンクリートが用いられはじめ、建築分野における学問体系として建築構造学が認識されていきました。その頃になって、内藤多仲は建築を学び始めます。内藤多仲は、東京帝国大学に入学し、当初は造船学を専攻していたものの、日露戦争後、造船不況を考慮して建築学に転向し、当時の建築構造学の先達であった佐野利器[明治13年(1880)生-昭和31年(1956)没]に師事します。そして、明治43年(1910)に東京帝国大学を卒業し、大正2年(1913)に早稲田大学の教授に就任、大正6年(1917)から大正7年(1918)におけるアメリカ留学の中で、耐震壁による「耐震構造理論」を見出し、大正13年(1924)に「架構建築耐震構造論」という論文で工学博士号を取得、構造建築家としての道を進み、日本独自の近代的な建築構造学を発展させていきました。大正12年(1923)の関東大震災で東京が壊滅した際には、内藤多仲の設計による耐震壁付きの鉄骨鉄筋コンクリート構造で建てられた建築はことごとく無傷だったといいます。
東京タワーの建設当時、70歳であった内藤多仲は、日本建築学会会長、早稲田大学理工学部長などを務め、すでに名古屋テレビ塔、大坂二代目通天閣、さっぽろテレビ塔など30基近い鉄塔の設計を手掛け、「塔博士」と称されていました。その当時の日本における建築分野においては、それまでの伝統的な価値観や形式を拒絶し、新しい建築表現を追求しようとする動きがあり、機能性、合理性に基づき、建築工業製品による材料を用いて、それらの材料に特有の構造や表現をもつモダニズム建築が流行していました。東京タワーの設計は、地震や台風が多い日本独特の気候がある上に、東京湾から吹く強風にさらされる土地柄により、耐震性と耐風性が課題となり難航したといいます。設計上の構造計算に3ヶ月を要し、作成された設計図は1万枚に及んだとのことです。結果、打ち出された設計は、高さ333mの鉄骨造で、主要部材を三角形に組み上げることで安定性を高める「トラス構造」が採用されました。また、部材同士を完全に固定せずにあえて余裕を持たせ、地震の振動を受け流して最上部まで揺れを届かないようにする揺れを吸収する工夫も施されたといいます。世界有数の地震大国である日本では、それまで高層建築の建設は不可能だと考えられており、その概念を覆したのが東京タワーの建設事業であり、その時代にありながらも世界一高い超高層の自立式鉄塔が建設されたことになります。東京タワーは、現在では高さを競うように立ち並ぶ高層ビルや高層タワーマンションなど高層建築の先駆けともいえる建造物であったといえます。
写真 東京タワー[日本電波塔]設計図の一例
内藤多仲を中心に進められた前代未聞の東京タワーの設計を建造物として実現したのは、現場の最前線で活躍していた技術者たちでした。現場の労働環境は、安全面が確保されていない中で品質面における高い施工精度が要求される、という過酷を極め、困難を極める状況だったといいます。東京タワーの建設工事は、昭和32年(1957)5月から6月末にかけてボーリング調査が行われ、6月29日に地鎮祭が執り行われて着工し、7月15日に最終的な設計図が完成、9月21日に鉄骨の組み立てが始まり、着工から1年3ヶ月後の昭和33年(1958)12月23日に完成、完工式が挙行されました。建設費は約30億円、使用する鉄鋼の総重量は4,000t、関わった人員は延べ21万9,335人だったといいます。世界一高い建造物の建設工事でありながら、たった約15ヶ月という工期しかなく、工事は急ピッチで進められました。そのような異例のスピードで工事を進めるために、鳶職人をはじめとする優秀な技術者が全国から集められ、各作業領域における技術の粋が集められました。通常、大規模建造物の建設事業などは、何年もの時間をかけて設計し、見込まれる工期を十分に設けた上で安全面に考慮し工事を進めていきます。しかし、東京タワーの場合は、設計期間が3ヶ月、工事期間が15ヶ月と短く、驚くべきスピードでの完工といえます。東京タワーは当初から昭和34年から運用する計画になっていたため、絶対に遅らせることはできなかったそうです。そのため、作業員に対する安全に関する取り決めはなく、命綱を付けると工事に大幅な遅れが見込まれるため、命綱をつけないままに工事を進めることになり、工事に関わった鳶職人たちは安全帯やヘルメットも装着せずに命綱なしで作業を進めていたといいます。あまりに危険であったため、途中で安全帯やヘルメットが導入されたようです。まさに命懸けです。
写真 鉄骨の上の作業員たち
鳶職人は、初期には20人、仕事が増えていくと常時60人が稼働し、上部では6~7人で鉄骨の組み立てを行っていたといいます。現場を指揮していた若頭が当時25歳の若さだったというから驚きです。鳶職人たちの1日は、朝6時から夜6時まで12時間フル稼働、急ピッチで高所作業が続いたといいます。高所までの移動は、80mの足場まで4分で昇る2m四方のゴンドラで対応していたといいます。鳶職人たちは、夜明けになると、ハンマーやスパナ、ペンチなどを携帯し、ゴンドラに乗って最上部の作業場所に向かったといいます。途中で地上に降りることはできないため、簡易トイレを持参し、上空の作業場所で用を済ましたといいます。当時は建設技術が発達しておらずクレーンなどの重機がなかったため、鉄骨をはじめとする部材はゴンドラに乗せて揚重し、ほか鉄骨の組み立てなどの作業はすべて手作業で行っていました。足場は幅30cm程度で、その範囲内で作業するため鉄骨にしがみつきながらの作業も多かったそうです。また、作業場所である上空は風がかなり強く、高さが増すごとに強風に苦しめられ、秒速10mの風が吹いたら立っていられなかったそうです。東京湾からの突風が吹くこともある中、納期が厳しいことにより風速15m/sまでは作業をしていたとのことです。そして、日が暮れてやっと地上に下りることができたといいます。さらに、冬は凍えるほど寒く、夏になると台風が来る。天候が作業環境に与える影響が大きかったようです。想像を絶する過酷な環境下での作業であり、怪我も絶えなかったといいます。その上で、鳶職人たちは手戻り作業が許されないような緊張感のある状況下に置かれ、求められる品質面での施工精度はとてつもなく高く、間違いが許されなかったといいます。
写真 工事中に設置されていたゴンドラ
東京タワーの鉄骨の接合部は、高さ141.1m地点まではリベットと呼ばれる鋲(びょう)のピンを打ち込んで接合し、それ以上の高さは防錆のための亜鉛メッキが施されたボルト接合になっており、ボルトは本締めした後に溶接して固めていました。夏場の鉄塔は40-50度まで温度が上昇するため、溶接作業も難航したといいいます。リベットが16万8,000本、本締めボルトが亜鉛メッキ部材の現地接合で4万5,000本を使用したとされています。東京タワーの工事で有名なのが「死のキャッチボール」と称されている作業です。鉄骨を接合するリベットをキャッチボールのように空中で受け渡していました。下部にいる鳶職人が、炉で800℃に熱したリベットを鉄製の箸ではさんで、上部の各作業場所にいる鳶職人に対して放り上げるようにパスして受け渡します。放り投げた先にいる鳶職人は、金属製のバケツで800℃のリベットをキャッチして受け取ります。そして、鉄骨の接合部の穴に差し込み、ハンマーで一気に打ち付けて鉄骨同士を接合していました。ときには、20mクラスのロングパスもあったそうです。この「死のキャッチボール」は約28万回も繰り返され、高所での危険作業が毎日行われていたといいます。東京タワーは、今では想像できないような過酷を極める労働環境、困難を極める危険な手作業によって建設されました。
写真 鉄骨の上で高所作業を行っている作業員たち
東京タワーの建設事業からは、どんなに無謀と思われるような計画で、過酷を極める労働環境、困難を極める危険な作業環境であったとしても、絶対に作り上げる、実現する、成し遂げてみせる、といった使命感や仕事に対する凄まじい情熱が読み取れます。また、建設事業に関わる全員が一体となり、技術者としての誇りをもって命懸けで取り組んでいたことが伝わってきます。これを命知らずで無謀と捉えるかは、人それぞれの価値観によると思います。しかし、当時のような建設技術が満足に発達しておらず、十分な設備も無く、取れる安全対策も少なかった時代において、上空での一歩間違えれば死と隣り合わせにある労働環境、作業環境は恐怖でしかなかったはずです。その状況に直面しながらも絶対に事故を起こさない、自身や仲間の命をお互いが守り抜くという信念があったからこそ、東京タワーが実現したのだと思います。その功績によって、我々の生活が豊かになり、今に繋がっているのです。そして、東京タワーのある風景が人々の心に染み込んで心を豊かにし、今では多くの観光客を楽しませてくれているのです。
東京タワーの工事では、残念ながら1名の鳶職人の方が亡くなったといいます。建設業界で働く我々にとっては、東京タワーの建設事業という経験がひとつの礎となり引き継がれ、現代の建設現場における技術の進歩や、安全面への対策、労働環境や作業環境の改善などに繋がり、教訓として生きてきているのです。工事に関わる作業員ひとりひとりが安全に対する高い意識を高くもつこと、それが仕事に対する情熱や使命感に繋がるのだと思います。我々も、日々の仕事の中で、安全意識を高く持ち、愛情を持って仕事に取り組みたいと改めて思いました。
私たちが行なっている消防用設備に関わる業務は、火災から人々の人命と財産を守り、人々が安心して暮らせる社会を守る、「やりがい」のある仕事です。奥崎工業株式会社では、「仕事のやりがい」、「働きがい」、働く「喜び」を共有できる一緒に成長していける仲間を求めています。経験者、未経験者ともに大歓迎です。未経験者の方でも、技術・技能の習得、資格の取得、業務の取り組み方など、丁寧に教えますので、安心してご応募ください。
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